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言葉は物事を現実にする

日本は大晦日というのに、30度を超える日中の暑さがそう感じさせない。しかもミャンマーの新年は4月であるから、年末年始休みもなく、余計に毎月と変わらない感覚になる。

しかし、2016年を振り返ってみれば、本当に多くの変化を越えた年だった。大学卒業後、3年間勤めてきたNPOを今年4月に退職し、国際協力NGOへ転職した。そもそも昨年の12月31日には退職後の仕事さえ決まってなかったことを考えると、2016年はずいぶん冒険的な始まりで迎えた。

転職後すぐトルコへ

福岡から東京で働き始め、ようやく1ヶ月の研修期間を終えたころ、急遽トルコへ出張に行くことになった。シリア難民問題の主要な登場国のひとつでもあり、転職の際に希望地のひとつとしていたとしても、クルド人問題を抱え、テロが頻発する地域へ行くのは少なからず勇気が必要だった。

実際に行ってみれば、そこには平和な日常があった。毎日5回、モスクからアザーンが流れ、人々はお祈りに行く。世界三大料理とも言われる豊かな食文化があり、美しい歴史的建造物が残る。同時にシリア難民を包摂しようとする姿が見られた。

一方で、3ヶ月という短い期間ででさえ、クルド人や反政府政治犯への弾圧、エルドアンの強権政治、シリア難民との文化的摩擦が見えてきた。帰国前にクーデター未遂が発生したことにはずいぶん驚いた。

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ミャンマーへ赴任

今年、5回も引っ越しをした。現在も1ヶ月の1週間はホテル滞在。そんな生活をしていると、自分の家がどこか分からなくなってしまう。

3ヶ月の出張を終え、日本に1ヶ月滞在したのち、9月ミャンマーへ赴任した。ミャンマーもまた、2012年に軍事政権が終わったものの、いまだに軍部が強い力を持ち、長年の内戦で制度も法律もすべてぐちゃぐちゃの状態だ。

義務教育がなく、政府、民族組織、寺院などがさまざまな形態の学校を運営する。高校卒業者はわずか30%、児童労働は当たり前に行われている。ロヒンギャへの弾圧も激しく、ビルマ政府と少数民族との和解は一進一退の状態だ。ヤンゴンでは乱開発が進み、環境汚染は深刻である。

一方で、トルコ同様、ここにも平和で豊かな日常がある。

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2016年で学んだこと

こうして、転々とした生活を送るなかで学んだことがいくつかある。

ひとつは、現在を知るには過去を知らなければならないこと。例えば、カレン州の地域はホワイトエリア、ブラウンエリア、ブラックエリアの3つに、ビルマ政府とカレン民族組織がそれぞれ支配する地域が分かれている。ブラウンエリアは二重政府状態だ。なぜこのような状態になっているか、ビルマ政府とカレン民族との戦いの歴史を知らねば理解は難しい。

もうひとつは、国や文化を知る近道はローカルの人と仲良くなること。言わずもがな、生きた文化や歴史は生活のなかにある。

そして、人が生きるために必要なものは案外少ない。引っ越しを繰り返すなかで、毎回不用品を処分していった結果、必需品はわずかスーツケース2つに収まった。所持品が少ないと身軽になれる。身軽になると移動が楽になる。移動が楽になると特定の場所にしばられることなく、自由になれる。

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言葉にすること

アジアで国際協力の仕事をしたいと初めて思ったのは2009年のことだ。それから7年、紆余曲折ありながらも、ようやく辿り着くことができた。

そして思うのは「言葉は物事を現実にする」ということだ。

関心のあることを職にする。決して簡単でないことかもしれない。ただ、こんな仕事をしたい、こんなことに関心があるということを言葉にすることは、きっとその実現を助けてくれる。

いまの職に就くまでもいくつか大きな選択をしてきた。いや、選択といいつつ、そのときの流れに任せていた。その流れこそ、言葉が生み出したものだ。このような機会もあるのではないかと転職を勧めてくれる、魅力的な転職先を紹介してくれる。大きな選択こそ、自分だけで選ぶことは難しい。

言葉にしてこそ、選択はより目指すところに近づき、物事は現実になる。叶うかどうか前に、自信があるかどうかに関わらず、言葉にすることできっと未来は目指すところに近づくはずだ。そう改めて感じる2016年だった。

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大晦日の今日も日常が流れる。いつもと同じ賑やかな市場がミャンマーで一番好きな景色だ。

 

ミャンマーのパアンからタイのメーソートへ

先日、ミャンマーのパアンからタイのメーソートまで行ってきた。

タイのからミャンマーのミャワディへ来る人は多いが、ミャンマーからメーソートへ行く人は少ないので紹介。

パアンからミャワディへ

ミャンマーのパアンからは国境の街ミャワディまで約3時間。バス、乗り合いタクシー、貸し切りタクシーの3種類の方法で行くことができる。

午前便のバスがなかったので、毎時ある乗り合いタクシーを選んだ。価格は8,000チャット。パアンのダウンタウンにあるPhoe La Minというスーパーの近くに旅行代理店が複数あり、バスと乗り合いタクシーのチケットが買える。

バスは時間がかかるが乗り心地は良く安全、乗り合いタクシーは速く安いが同乗者によっては危険、貸切タクシーは落ち着けて速いが値が張る。懐事情と旅程に合わせて選ぶと良いと思う。

ちなみに乗り合いタクシーは、5人乗りのプロボックス。助手席に1人、後部座席に3人が座る。もうひとりは椅子のないトランク・・。席配置も混み具合も運任せ。

なお、パアンからミャワディまでに通るアジアハイウェイ上では、ビルマ政府とカレン民族武装組織との間で、散発的に武力衝突が起こっている。以前まではこの道は隔日のみ通行が可能だったこともあり、念のため、出発前に状況を確認した方が良いだろう。

Villagers Fear DKBA and Government’s Militia Fighting Near Kawkareik Will Result in Displacement « Karen News

 

ミャワディからメーソートへ

ミャワディは、パアンとは打って変わって、栄えた賑やかな街。タイ側から中古の農機具やバイクなどが大量に運ばれてくる。

タイ側へは立派な門をくぐって、モエイ川にかかる友好橋を歩いて渡る。乗り合いタクシーはこの門の近くでおろしてくれるので、門を目印に迎えば迷わない。

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ミャンマー側のイミグレはミャンマー人でいっぱいであったが、外国人は少なく、待つことなく出国。先日、今まで1日に限定されていたミャンマー人向けのタイへの一時入国ビザが1週間に延長され、より行き来が活発になったのかもしれない。

Myawaddy-Mae Sot Temporary Border Crossing Permit Extended From One to Seven Days « Karen News

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国境線となっているモエイ川を上っていくと、チベットを源流とするサルウィン川にたどり着く。「ランボー/最後の戦場」では、ランボーがこの川を遡上し、カレン民族支配地域に入り戦いを繰り広げる。僕が住むパアンもサルウィン川の下流に位置する。

ランボーの世界とはまるで異なり、のどかな時間が流れていた。

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ミャンマーは左側通行、タイは右側通行のため、橋の上では入れ替え用のレーンがあった。事故が起こることはないのかな。

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メーソート

日本人はビザなしでタイへ入国できる。並ぶこともなくあっさり入国。セキュリティチェックさえも日本人と分かるとパス。国籍に安全かどうかなんて関係ないのに。

入国したすぐ先にトゥクトゥクの乗り場がある。メーソートのダウンタウンまでわずか20Bだが、満員になるまで全然出発しない。タクシーだと100Bほど。タイ側のゲートにはトラックの列が延々と続いていた。

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トゥクトゥクダウンタウンの市場まで行く。この電線と看板の多さがどことなくパアンと異なる雰囲気を醸し出す。市場からしばらく歩くと、町中に出る。と言っても、目新しいものは特にない。

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ダウンタウンのマップ。

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町はずれのゲストハウスに泊まった。1泊400バーツのみで、ミャンマーに比べて宿泊費は断然安い。大学時代に東南アジアを貧乏旅行していたころは400バーツでも高いと思ったものだ。

ゲストハウスでは自転車を無料で貸してもらえた。坂道がないメーソートでは自転車移動が大活躍。

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ロビンソンで買い物をして、夜はライブミュージックが聴けるお店でタイ料理。

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ついつい楽しくなって、近くの飲み屋さんに入る。音楽を聴きながらお酒を飲める幸せ。。パアンにもひとつでもこんなお店ができれば良いのに。

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翌朝、ダウンタウンの市場へ行く。とても賑やかなだ。野菜も肉もパアンの市場で売られているものと大差ないが、衛生状態と新鮮さはずいぶん違う。

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市場を歩いていると、タナカを塗ったミャンマー人や、ヒジャブをかぶったムスリムの女性によく会う。人が行き交う国境の町ならでは様子かな。

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朝ごはんは中国人が経営するお店でお粥を食べる。久々のミャンマー料理とタイ料理以外の食事が嬉しい。

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メーソートからミャワディへ

帰路ではメーソートのダウンタウンから国境まではタクシーで行った。100Bで20分もかからずに着く。ふたたび友好橋をわたってミャワディへ向かう。タイ側の国境沿いには鮮やかな市場があった。

ちなみにイミグレはミャンマー時間の17時で閉まる。ミャンマーとタイでは30分の時差があり、タイ時間では16時半となるので要注意。

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夕暮れどきの景色は美しい。船で人々が国境線であるモエイ川を行き来する。ビザはどうなっているんだろうなんて、野暮なことは言わない。国境なんて、文化や民族の境界線ではなく、単なる人工的に引かれた線にしか過ぎないのだ。

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田舎町メーソートにはモスクがあり、夕方にはお祈りの時間を知らせるアザーンが流れていた。イスラム教への圧力が強いミャンマーに比べて、お隣の街では自由なようだ。市場では、ビルマ語を話すインド人や、中国人のお店でお粥を食べるタイ人、タナカを塗ったミャンマー人に出会った。

ミャンマーではムスリムは歓迎されない。中国人嫌いも多い。カレン人はミャンマーとタイにまたがって住む。先の内戦では多くのカレン人がタイ側へ流れ込んだ。また、タイへの出稼ぎも多い。

見逃してしまうくらいに小さなことかもしれない。しかし、メーソートは単なる田舎町ではないように思う。民族も宗教も入り混じった国境ならではの多彩で豊かな町だった。それを辿れば、これまでの過去も現在もまた垣間見られる。

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Building a Better Response(BBR)オンライントレーニング

パアンのように首都から離れた場所だと、なかなか研修に参加する機会がない。嬉しいことに、オンラインで研修を受けられるコースがどんどん増えてきた。そこでさっそくBuilding a Better Response(BBR)のオンラインコースを受講した。

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Building a Better Response

Building a Better Response(BBR)とは

Building a Better Response(BBR)は国際緊急人道支援において、より効率的で効果的な活動を行うべく、NGOを含めた様々なアクター間の連携調整を目的とするプロジェクトだ。Webサイトの文言を借りれば、

The Building a Better Response (BBR) project aims to enhance the capacity of national and international NGO workers and other humanitarian actors to engage with the international humanitarian coordination system in a manner that improves overall coordination and responds to the needs of crisis-affected populations.

であり、クラスターシステムを中心とした連携調整の仕組みをもとに、国内外のNGOやUN機関がいかに被災者のニーズに応えていくかというものだ。

International Medical Corpsが主導し、Concern WorldwideとHarvard Humanitarian Initiativeとの協働により立ち上げられた。

 

オンラインコースの内容

オンライントレーニングは次の5つのユニットから成る。

Unit 1: Foundations of Humanitarian Action

緊急人道支援における主要アクターを解説した上で、人道支援の原則やこれまでの歴史を紹介し、どのような経緯を経て現在の仕組みが生まれてきたか、どこが重要な点であるかを説明する。

Unit 2: The International Humanitarian Architecture

Inter-Agency Standing Committee(IASC=機関間常設委員会)やEmergency Relief Coordinator(緊急援助調整官)、Humanitarian Coordinator(人道調整官)といった仕組みをはじめ、被災国内外における緊急人道支援の調整メカニズムを解説する。

Unit 3: The Cluster Approach

常設の国際クラスターと、被災状況に合わせて設置される国レベルのクラスターの仕組みを説明する。また、11にわたるクラスターの主な役割と、主導する組織も解説。

Unit 4: Planning and Funding the Humanitarian Response

Humanitarian Programme Cycle(人道支援プログラムサイクル)を説明した上で、どのようにニーズアセスメントやプランニングを行うか解説する。また、Central Emergency Response Fund(CERF=国連中央緊急対応基金)による貸付と給付という2種類の資金メカニズムを紹介。

Unit 5: International Law and Humanitarian Standards

改めてInternational Humanitarian LawとHuman Rights Lawの概要を説明し、緊急人道支援で働く人がプロフェッショナルであるための基本原則を伝える。

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オンラインコースのすすめ

現場の日常業務に追われていると、どうしても視点が狭くなりがちだ。業務とは別に自分自身の関心を勉強したいこともあるだろう。とてもありがたいことに、無料で受講できるオンラインコースがどんどん増えている。

Building a Better Responseのコースはとても分かりやすく、ユニットごとに分かれ進捗状況が目に見えるため、達成感を感じながら進められた。ひとつのユニットに1時間かからないくらいなので、全部で5時間あれば十分に修了できるだろう。

対面でのコースも別にあるが、移動費や受講料、時間を考えると、決して悪い選択肢ではないように思う。

国内外の遠隔地に住んでいる人、現場で働きながら大きな視点も手に入れたい人、現場での事業運営のヒントを得たい人、これから国際協力分野で働く人などにおすすめだ。

参考サイト

ミャンマーの田舎と暮らし

美しい田園地帯と穏やかな暮らし。カレン州での民族紛争の印象とはまったく異なる風景が村には残る。

カレン州パアンから車で20分ほど、コカタンカーという村に行ってきた。見渡すかぎり田んぼと畑。朝もやがきれいだ。乾季が始まったこの時期は、みな焚き火をするので、夕方になるとけむく、さらにもやが濃くなる。

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カタンカーは知り合いの大学の先生(右奥)が生まれ育ったところ。先生の弟と、村の学校の元校長先生も加わって、村をのんびり歩く。

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ちょうどこの日はUNHCR DAYで、村の広場では子どもたちがイベントをしていた。そういえば、ミャンマー小学校で一度も男性の先生を見たことがない。この学校も若い女性ばかり。

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先日、アウンサンスーチーさんが来日したとき、「優秀な人材を集めると女性ばっかりになってしまうので、男性にもチャンスを与えなくてはいけない」と語ったらしいが、調べてみると、同国の労働参加率の男女差は7.5ポイント(女性72.4%、男性79.9%)と、東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国の中でも2番目に差が小さいとのこと。カレン人の男性も真面目で働きものだが、やっぱり役所やお店に行っても、女性の率が高い。

頭に乗せた大きなざるを落とさないように歩いたり、バケツからペットボトルへ口移しで水を運んだり、不思議な競技ばかり。子どもたちはみんな楽しそう。

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村の学校とクリニックは草の根・人間の安全保障無償資金協で作られたようだ。ODAマークが入った看板が飾られていた。

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日本語を話せる女性がいると聞いて、会いに行ってみた。

1974年、29歳のときに東京へ夫とももに日本に来たらしい。それから10年、日本に住み、夫が亡くなったあと、ミャンマーに帰国した。ほとんど話す機会がない日本語はたどたどしいが、彼女が生きてきた人生に触れられたようで嬉しかった。

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お昼はミャンマー料理をご馳走になる。

豚肉のカレー(ウェッターヒン)に、冬瓜のスープ、卵焼き、ピーナッツであえのサラダ、魚醤(ンガピャーイェー)。お馴染みの塩辛い味付けだが、ご飯がよく進む。

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食事のあとは再び村を歩く。日中は日差しが強く、30度以上にもなる。

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ヤンゴンをはじめ、急速な開発が進められる最近ではあるが、こうした豊かな暮らしが守られ、長く残っていくことを願ってやまない。

パアンでも綺麗な建物が増え、家電や携帯電話の普及率も上がってきているように思う。たしかに新しいものは魅力的で、便利かもしれない。しかし、便利になればなるほど、人は時間に追われ、”暮らし”を忘れていく。

ミャンマーに来て幸せに思うのは、そうした丁寧な暮らしが感じられることである。日本人のエゴであろうと分かりつつも、失ってほしくないと願ってしまうのだ。

乾き。と嫌悪

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乾き。

ひとことで言えば、”嫌悪”である。

酒に溺れる父親、不倫する母親、ドラッグに性に暴力に囚われる少年たち、ロリコン警察官に医師、殺人殺人殺人。誰がこんな世界を望むだろうか。

小松菜奈が演じる藤島加奈子は容姿端麗でみなに愛される高校生。だが、第三者を追えば追うほど、そこで出会う姿はまったく異なるものだ。狂った思考で、周囲を地獄へ引き込む悪魔だ。

 

なぜこれほどまでに嫌悪感を感じるのか。

ひとつに僕らが抱くこうあるべきという姿から逸脱しているからだ。父親は家族を守る、母親は優しく愛情を与える、高校生は真面目で素直、美しい少女は純粋で潔白、医師は誠実で信頼できる、警察は正義で助けてくれる、先生は正しく成長を助ける。そうした理想の姿に合う登場人物はひとりもいない。

一方で、役所広司が演じる藤島昭和は、そうした理想に囚われている。美しい妻と可愛い子どもがいる理想の家族を描きながら、同時にそれを破壊したいという湾曲した衝動を抱く。そこには、家族というものへ彼自身のコンプレックスが見て取れ、手に入らないと手に入れたくないとの矛盾がある。結果的にそれは虐殺と暴力へと発散される。

加奈子はその暴力と、母親からの愛情欠落により、夢の世界に生きるようになる。それは彼女がHEAVEN HOTEL(天国のホテル)に身を置き、鏡に対峙するかたちで、自室を再現することにある。彼女はもうひとつの私とその世界をつくることにより、自己を防衛し、彼女もまた、暴力に囚われていくのである。父親の虐待に合う自宅の部屋と、血に塗れた拷問道具が置かれた天国の部屋。それこそが彼女の容姿端麗な姿と、残酷な悪魔の姿を表す。

 

これらを換言すれば、乾き。で描かれるのはコンプレックスである。

それは矛盾した二面性であり、誰もが何かしらのかたちで持つものである。彼らが人間であるならば、僕らも形や程度は違えど、同様のコンプレックスを持つ。乾き。から目を逸らすのであれば、自身のコンプレックスに気づけない。そして、それはあるきっかけで増大し、僕ら自身を食う。その潜在意識的な恐怖感こそ、乾き。が描くもののように思う。

60年続くカレン民族の戦い

ランボー/最後の戦場は、カレン人とビルマ軍との戦いだ。クリスチャンのアメリカ人NGOが、ビルマ軍により民族浄化(とも言われている)にあうカレン人へに行くところから物語は始まる。この映画で描かれるのは、ビルマ軍による虐殺やレイプ、戦争のむごさと虚しさ、善意と正義の無力さである。*1

 

公開された2008年から8年が経った今も、決してその戦いは終結していない。今年9月19日には、DKBA(民主カレン仏教徒軍=Democratic Karen Buddhist Army)と政府軍下のBGF(=Border Guard Forces)との間で衝突が発生し、5,500人以上もの人がIDP(国内避難民=Internally Displaced People)として避難を余儀なくされている。先月19日にもパアンから3時間ほどの場所でも衝突が起きた。

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1948年にビルマは英国から独立した。カレン人はビルマからの分離独立を求め、1949年、KNU(カレン民族同盟Karen National Union)と、カレン民族解放軍(KNLA= Karen National Liberation Army)によりビルマとの紛争が始まる。これから60年もの間、続く紛争は世界で最も長い内戦のひとつとも言われている。

現在、ほとんどの地域を政府軍により実行支配され、KNUが支配する地域はタイとの国境沿いにあるわずかな地域である。それでもなお、パアン地区を除けばカレン州の多くの地域が政府とKNUの二重政府状態にあり、複雑な様相を呈している。

 

さて、カレン州で仕事をするにあたって、これらの背景を知っておくことは不可欠だろう。先週からさまざまな文献を読み漁って、特にカレン民族組織を中心に図式にまとめてみた。*2

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本当に複雑だ。新規設立・分離・合体を繰り返し、有象無象の組織が生まれ、お互いに戦闘・協力体制にある。以下に主要な登場人物をまとめてみる。

KNU(カレン民族同盟Karen National Union)

1947年に4つの組織を編成して設立され、以降、民族組織の中心的な役割を果たしていく。軍事組織として、カレン民族解放軍(KNLA= Karen National Liberation Army)を構成。2012年に政府と停戦協定を結ぶ。

DKBA(民主カレン仏教徒軍=Democratic Karen Buddhist Army)

1994年、KNUやKNLAの上層部の腐敗が相次いだり、キリスト教カレン人が上層部を占めていることに対して反発し、仏教徒カレン人が独立し設立。KNUの中心地であったManerplawを占領し、数年後には最大勢力となる。設立直後からビルマ軍と連携を取る。

BGF(=Border Guard Forces)

民族武装組織との停戦協定が進むなか、完全な武装解除が難しいと考え、新たにそれらの組織の受け皿として、ビルマ軍下に設置した。これまでにDKBAやKPF(=Karen Peace Force)などがBGFとして編成されている。

DKBA-5(Democratic Karen Benevolent Army)

DKBAがBGFに組み込まれることに反発し、DKBAの第5旅団が分裂し設立。KNUと緩やかな連携体制にある。2011年に停戦協定に署名したものの、実質無効化している。

 

主にこれらの組織が中心的な存在になっている。ただし、KNLAやDKBAとひとことに言っても、複数の旅団があり、DKBA-5のように彼らはほぼ独立的に動いているようだ。完全なトップダウン構造でないために、停戦協定が結ばれたとしても、組織下部で散発的に衝突が発生するのだろう。

また、長年の紛争で蓄積された民族間の確執は組織が変わったからといって、簡単に洗い流されるものでは決してない。目の前で自分の家が焼かれ、子どもがレイプされ、殺されたとしたら。それがある民族と民族の間で行われたら。相手の民族を恨み報復したら。その傷を癒やし、憎しみの連鎖を断ち切るにはどうすれば良いのだろう。

例えば、Free Burma Rangersは13民族からレンジャーを育て、ファーストエイドや保険医療の提供を最前線で行っている。ひとりは言う。「私たちは赦すことを教わった。正直に言えば、赦すことはとても難しい。しかし、敵であっても赦し、相手へ愛を向けることを学ぶ機会を与えられた。もし赦しがないのであれば、憎悪の連鎖は続くだろう。」

 

歴史を学ぶことは、同じ轍を踏まないためだけでなく、どう自分が振る舞うべきかヒントを与えてくれる。当事者にはなれない。しかしながら、言葉ひとつにとっても、目の前にある現状にとっても、理解するには不可欠なように思うのだ。

さて、次はカレン人に話を聞いてみよう。

*1:ランボーNGOがいかにも正義であるかのように捉えられるのは引っかかるが、ランボーNGOへの”介入”を躊躇う姿は、同時にその介入が更なる紛争に結びつくストーリーは、欧米諸国の介入を必ずしも是非としていないシルヴェスター・スタローンの思いが読み取れる。

*2:あまりに複雑で、理解が不足していたり、間違いがさくさんあるはず。あくまでも参考までに。

ミャンマー・カレン民族のドンダンスを観に行った

11月7日は第61回目のKayin State Dayだった。この日に合わせて、州都のパアンでは、カレン州祭りが開催。数え切れないほどの露天が並び、ミャンマーボクシングや花火などが5日間にわたって行われる。老若男女、驚くほど多くの人が集まり、騒ぐ。

期間中、カレン民族の伝統な踊り、ドンダンスのコンテストを観に行った。

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1チームは男女16名ずつの踊り子と、演奏と歌い手の50名以上で構成される。冒頭はチームで一番、歌と踊りが上手な女性が独唱する。

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その後、30分近い長い時間、休みなく、踊り子は歌いながら激しいダンスを繰り広げていく。

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シェー。

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次々と変わるフォーメーション。f:id:taaku3:20161113200900j:plain

パアンだけでなく、別の町のチームもコンテストに出場する。会場には出場者の家族や友人も会場へ駆けつける。

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あまりの激しい踊りに、舞台の裏では踊りを終えた女性が何人も倒れていた。まるで戦場のような戦いの場だった。

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今年の優勝チームはパアンにある大学生チーム。普段の素朴なカレンの人たちも素敵だけど、伝統衣装に身を包んだ踊り子も美しい。

ちなみに優勝チームが決まったダンスは夜中の2時。会場にはまだ多くの観客。彼らの体力に驚いてしまう(こちらは酔っ払い)

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カレン州の設立

カレン州設立記念が第61回目ということは、1955年にカレン州が設置され、カレン州祭りも同時に始まったと考えられる。しかし実際のところ、1951年の憲法改正により、非常に限られた地域でカレン州は設置され、翌年に6つのタウンシップ、1960年に1つのタウンシップが組み込まれ、現在のカレン州が誕生した。カレン州設立のお祝いは1955年から始まる。*1

一方で、1947年にミャンマーは独立したものの、その際、カレンは州として含まれなかった。その結果、カレン族は独立をもとめ、Karen National Union(KNU)を立ち上げ、それから2012年までの約60年間、政府対少数民族の戦いを繰り広げていく。*2

いまだに治安が安定しないカレン州であるが、パアンから離れた村々からも、このお祭りに参加するために多くの人が集まる。

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ドンダンスのリハーサル

カレン州祭りは5日間であるが、開催前に5日間の準備期間がある。この期間からすでに露天は出ているので、さながらもうひとつのカレン州祭りである。

本番前にドンダンスチームはお祈りを捧げる。

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会場ではリハーサルが始まる。リハーサルでは、化粧はせず、おそろいのロンジーとTシャツで踊る。

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ドンダンスは激しくも、カレン民族の多彩な伝統が残る美しい踊りだった。そして、子どもたちの世代に引き継がれ、多くの人たちを魅了する文化だった。

開発ラッシュに湧くミャンマー。これまで守られてきた伝統文化はどうなっていくだろうか。いかなる形にせよ、この豊かな文化が人々のなかに残り続けることを願ってやまない。