カレン新年のお祭りに行ってきた
ミャンマーでは4月が正月で、12月31日も1月1日も平日だが、12月29日はカレン民族の新年で祝日だった。カレン州の州都パアンでも人々がカレンの旗を軒先にかかげ、新年をお祝いをする。
新年当日、まだ外が真っ暗な5時半に家を出て、Karen Student Centerでのお祭りに参加してきた。会場に到着するとすぐカレンの旗を少年たちが掲げ始めた。参加者はみな起立して迎える。
カレン民族の暦では、今年は2756年だ。紀元前7世紀にスゴーカレンとポーカレンが生まれたとされている。ミャンマーの地に初めて下り立ったのはカレン民族という説もあるが、果たして事実はどうなのだろうか。
招待客を迎えるカレン民族の伝統衣装に身を包んだ少女少年たち。鮮やかな色でかわいらしい。
旗を上げたあとは軽食が振る舞われた。紅白ならぬ、白黒のもち米である。黒いもち米は初めて食べたが、柔らかく香も良い。赤飯のようにごま塩が振られている。聞けば、黒い方が高く、招待客にしか振る舞っていないそうだ。しかし、赤飯が縁起直しとして食べられる一方で、白黒のもち米には特に意味はないらしい。
そして、日の出を迎える7時から再び式典が始まった。舞台中央に年配の男性が座り、少年たちがスピーチを行う。1人10分近いものが何人も続くので疲れてしまう。
式典前にもらった"The Karen New Year Day"を読む。
これによると、カレン新年のお祝いが始まったのは79年前の1936年である。イギリス植民地時代、現在のKNU(Karen National Union=カレン民族同盟)の前身となるKNA(Karen National Association)が生まれる。KNAはカレンの民族文化を広めるべく、政府へ"Karen National Day"の設置を請う。
しかし、カレンナショナリズムの台頭を危惧した政府は"Karen New Year Day"として承認した。KNAは宗教や国籍に関わらず受け入れられるだろう、カレン歴の1日目をその日として選んだ。加えて、農産物の収穫や家の新築に適した時期であることも、この日に選ばれた要因のひとつであった。
現在、カレン新年の行事としていくつか共通することがある。収穫したばかりの農作物に感謝をし食すこと、村人がみな集まりお年寄りへ感謝をすることなどである。
Karen Student Centerでも、式典の後に、豊作を感謝する儀式が行われた。お米や里芋が積み上げられた山に、お祈りをしながら、お米でできたお酒をかけていく。なぜか一番偉いであろう人がサングラスをかけている。こういうところがミャンマーっぽい。
しっかり練習したのかなと思ってしまうほど、ぐだぐだな進行。日本人だから急に名前を呼ばれ、途中から参加させられる。
これらの儀式はいつから行われているものなのだろうか。
どのようにカレン新年が生まれたかを考えると、これらの儀式は伝統的なものというよりも意図して作られたもののように感じてしまう。犠牲祭の要素と、上座仏教の要素(目上の人への敬意を払う)などが入り混ぜて、何かしら意味を持たせようとしたのではないか。
儀式後、ちょっと怪しい緑色のお酒を飲む。何かくだものの葉(忘れてしまった)をストローに。もち米から作られているらしく、少し独特な香がある。
儀式が終われば、今度は朝食だ。里芋のクリームシチューのようなものと、エビとタニシのスープのようなもの。どれも初めて食べたが、カレンの食べものらしい。
食事後、お米で作られた甘いものが振る舞われた。甘酒のように少しアルコールを含むが、甘酒ほど滑らかでもない。
しかし、食べるものも飲むものもみなお米からできている。ミャンマーは米消費量が世界一らしいが、彼らの生活をお米なしでは語れない。
Karen Student Centerでのお祭りを終え、巨大なカレン族の人形があると噂の場所へ向かう。到着するなり、遠くに異様な存在感を醸し出す男の姿が見えてくる。
近くで見るとなかなかの迫力だ。夜に再度見に行ったらキセルがピカピカ光っていた。なかなかにくい演出だ。ちなみに中はハリボテ。
今年のカレン新年はいろんな米の形を堪能した日だった。
西暦とは異なり、日本の旧暦のように太陰太陽暦で日にちが決まるため、特定の日ではないようだ。来年はどんな像が見られるのだろうか。少し楽しみである。
言葉は物事を現実にする
日本は大晦日というのに、30度を超える日中の暑さがそう感じさせない。しかもミャンマーの新年は4月であるから、年末年始休みもなく、余計に毎月と変わらない感覚になる。
しかし、2016年を振り返ってみれば、本当に多くの変化を越えた年だった。大学卒業後、3年間勤めてきたNPOを今年4月に退職し、国際協力NGOへ転職した。そもそも昨年の12月31日には退職後の仕事さえ決まってなかったことを考えると、2016年はずいぶん冒険的な始まりで迎えた。
転職後すぐトルコへ
福岡から東京で働き始め、ようやく1ヶ月の研修期間を終えたころ、急遽トルコへ出張に行くことになった。シリア難民問題の主要な登場国のひとつでもあり、転職の際に希望地のひとつとしていたとしても、クルド人問題を抱え、テロが頻発する地域へ行くのは少なからず勇気が必要だった。
実際に行ってみれば、そこには平和な日常があった。毎日5回、モスクからアザーンが流れ、人々はお祈りに行く。世界三大料理とも言われる豊かな食文化があり、美しい歴史的建造物が残る。同時にシリア難民を包摂しようとする姿が見られた。
一方で、3ヶ月という短い期間ででさえ、クルド人や反政府政治犯への弾圧、エルドアンの強権政治、シリア難民との文化的摩擦が見えてきた。帰国前にクーデター未遂が発生したことにはずいぶん驚いた。
ミャンマーへ赴任
今年、5回も引っ越しをした。現在も1ヶ月の1週間はホテル滞在。そんな生活をしていると、自分の家がどこか分からなくなってしまう。
3ヶ月の出張を終え、日本に1ヶ月滞在したのち、9月ミャンマーへ赴任した。ミャンマーもまた、2012年に軍事政権が終わったものの、いまだに軍部が強い力を持ち、長年の内戦で制度も法律もすべてぐちゃぐちゃの状態だ。
義務教育がなく、政府、民族組織、寺院などがさまざまな形態の学校を運営する。高校卒業者はわずか30%、児童労働は当たり前に行われている。ロヒンギャへの弾圧も激しく、ビルマ政府と少数民族との和解は一進一退の状態だ。ヤンゴンでは乱開発が進み、環境汚染は深刻である。
一方で、トルコ同様、ここにも平和で豊かな日常がある。
2016年で学んだこと
こうして、転々とした生活を送るなかで学んだことがいくつかある。
ひとつは、現在を知るには過去を知らなければならないこと。例えば、カレン州の地域はホワイトエリア、ブラウンエリア、ブラックエリアの3つに、ビルマ政府とカレン民族組織がそれぞれ支配する地域が分かれている。ブラウンエリアは二重政府状態だ。なぜこのような状態になっているか、ビルマ政府とカレン民族との戦いの歴史を知らねば理解は難しい。
もうひとつは、国や文化を知る近道はローカルの人と仲良くなること。言わずもがな、生きた文化や歴史は生活のなかにある。
そして、人が生きるために必要なものは案外少ない。引っ越しを繰り返すなかで、毎回不用品を処分していった結果、必需品はわずかスーツケース2つに収まった。所持品が少ないと身軽になれる。身軽になると移動が楽になる。移動が楽になると特定の場所にしばられることなく、自由になれる。
言葉にすること
アジアで国際協力の仕事をしたいと初めて思ったのは2009年のことだ。それから7年、紆余曲折ありながらも、ようやく辿り着くことができた。
そして思うのは「言葉は物事を現実にする」ということだ。
関心のあることを職にする。決して簡単でないことかもしれない。ただ、こんな仕事をしたい、こんなことに関心があるということを言葉にすることは、きっとその実現を助けてくれる。
いまの職に就くまでもいくつか大きな選択をしてきた。いや、選択といいつつ、そのときの流れに任せていた。その流れこそ、言葉が生み出したものだ。このような機会もあるのではないかと転職を勧めてくれる、魅力的な転職先を紹介してくれる。大きな選択こそ、自分だけで選ぶことは難しい。
言葉にしてこそ、選択はより目指すところに近づき、物事は現実になる。叶うかどうか前に、自信があるかどうかに関わらず、言葉にすることできっと未来は目指すところに近づくはずだ。そう改めて感じる2016年だった。
大晦日の今日も日常が流れる。いつもと同じ賑やかな市場がミャンマーで一番好きな景色だ。
ミャンマーのパアンからタイのメーソートへ
先日、ミャンマーのパアンからタイのメーソートまで行ってきた。
タイのからミャンマーのミャワディへ来る人は多いが、ミャンマーからメーソートへ行く人は少ないので紹介。
パアンからミャワディへ
ミャンマーのパアンからは国境の街ミャワディまで約3時間。バス、乗り合いタクシー、貸し切りタクシーの3種類の方法で行くことができる。
午前便のバスがなかったので、毎時ある乗り合いタクシーを選んだ。価格は8,000チャット。パアンのダウンタウンにあるPhoe La Minというスーパーの近くに旅行代理店が複数あり、バスと乗り合いタクシーのチケットが買える。
バスは時間がかかるが乗り心地は良く安全、乗り合いタクシーは速く安いが同乗者によっては危険、貸切タクシーは落ち着けて速いが値が張る。懐事情と旅程に合わせて選ぶと良いと思う。
ちなみに乗り合いタクシーは、5人乗りのプロボックス。助手席に1人、後部座席に3人が座る。もうひとりは椅子のないトランク・・。席配置も混み具合も運任せ。
なお、パアンからミャワディまでに通るアジアハイウェイ上では、ビルマ政府とカレン民族武装組織との間で、散発的に武力衝突が起こっている。以前まではこの道は隔日のみ通行が可能だったこともあり、念のため、出発前に状況を確認した方が良いだろう。
ミャワディからメーソートへ
ミャワディは、パアンとは打って変わって、栄えた賑やかな街。タイ側から中古の農機具やバイクなどが大量に運ばれてくる。
タイ側へは立派な門をくぐって、モエイ川にかかる友好橋を歩いて渡る。乗り合いタクシーはこの門の近くでおろしてくれるので、門を目印に迎えば迷わない。
ミャンマー側のイミグレはミャンマー人でいっぱいであったが、外国人は少なく、待つことなく出国。先日、今まで1日に限定されていたミャンマー人向けのタイへの一時入国ビザが1週間に延長され、より行き来が活発になったのかもしれない。
Myawaddy-Mae Sot Temporary Border Crossing Permit Extended From One to Seven Days « Karen News
国境線となっているモエイ川を上っていくと、チベットを源流とするサルウィン川にたどり着く。「ランボー/最後の戦場」では、ランボーがこの川を遡上し、カレン民族支配地域に入り戦いを繰り広げる。僕が住むパアンもサルウィン川の下流に位置する。
ランボーの世界とはまるで異なり、のどかな時間が流れていた。
ミャンマーは左側通行、タイは右側通行のため、橋の上では入れ替え用のレーンがあった。事故が起こることはないのかな。
メーソート
日本人はビザなしでタイへ入国できる。並ぶこともなくあっさり入国。セキュリティチェックさえも日本人と分かるとパス。国籍に安全かどうかなんて関係ないのに。
入国したすぐ先にトゥクトゥクの乗り場がある。メーソートのダウンタウンまでわずか20Bだが、満員になるまで全然出発しない。タクシーだと100Bほど。タイ側のゲートにはトラックの列が延々と続いていた。
トゥクトゥクでダウンタウンの市場まで行く。この電線と看板の多さがどことなくパアンと異なる雰囲気を醸し出す。市場からしばらく歩くと、町中に出る。と言っても、目新しいものは特にない。
ダウンタウンのマップ。
町はずれのゲストハウスに泊まった。1泊400バーツのみで、ミャンマーに比べて宿泊費は断然安い。大学時代に東南アジアを貧乏旅行していたころは400バーツでも高いと思ったものだ。
ゲストハウスでは自転車を無料で貸してもらえた。坂道がないメーソートでは自転車移動が大活躍。
ロビンソンで買い物をして、夜はライブミュージックが聴けるお店でタイ料理。
ついつい楽しくなって、近くの飲み屋さんに入る。音楽を聴きながらお酒を飲める幸せ。。パアンにもひとつでもこんなお店ができれば良いのに。
翌朝、ダウンタウンの市場へ行く。とても賑やかなだ。野菜も肉もパアンの市場で売られているものと大差ないが、衛生状態と新鮮さはずいぶん違う。
市場を歩いていると、タナカを塗ったミャンマー人や、ヒジャブをかぶったムスリムの女性によく会う。人が行き交う国境の町ならでは様子かな。
朝ごはんは中国人が経営するお店でお粥を食べる。久々のミャンマー料理とタイ料理以外の食事が嬉しい。
メーソートからミャワディへ
帰路ではメーソートのダウンタウンから国境まではタクシーで行った。100Bで20分もかからずに着く。ふたたび友好橋をわたってミャワディへ向かう。タイ側の国境沿いには鮮やかな市場があった。
ちなみにイミグレはミャンマー時間の17時で閉まる。ミャンマーとタイでは30分の時差があり、タイ時間では16時半となるので要注意。
夕暮れどきの景色は美しい。船で人々が国境線であるモエイ川を行き来する。ビザはどうなっているんだろうなんて、野暮なことは言わない。国境なんて、文化や民族の境界線ではなく、単なる人工的に引かれた線にしか過ぎないのだ。
田舎町メーソートにはモスクがあり、夕方にはお祈りの時間を知らせるアザーンが流れていた。イスラム教への圧力が強いミャンマーに比べて、お隣の街では自由なようだ。市場では、ビルマ語を話すインド人や、中国人のお店でお粥を食べるタイ人、タナカを塗ったミャンマー人に出会った。
ミャンマーではムスリムは歓迎されない。中国人嫌いも多い。カレン人はミャンマーとタイにまたがって住む。先の内戦では多くのカレン人がタイ側へ流れ込んだ。また、タイへの出稼ぎも多い。
見逃してしまうくらいに小さなことかもしれない。しかし、メーソートは単なる田舎町ではないように思う。民族も宗教も入り混じった国境ならではの多彩で豊かな町だった。それを辿れば、これまでの過去も現在もまた垣間見られる。
Building a Better Response(BBR)オンライントレーニング
パアンのように首都から離れた場所だと、なかなか研修に参加する機会がない。嬉しいことに、オンラインで研修を受けられるコースがどんどん増えてきた。そこでさっそくBuilding a Better Response(BBR)のオンラインコースを受講した。
Building a Better Response(BBR)とは
Building a Better Response(BBR)は国際緊急人道支援において、より効率的で効果的な活動を行うべく、NGOを含めた様々なアクター間の連携調整を目的とするプロジェクトだ。Webサイトの文言を借りれば、
The Building a Better Response (BBR) project aims to enhance the capacity of national and international NGO workers and other humanitarian actors to engage with the international humanitarian coordination system in a manner that improves overall coordination and responds to the needs of crisis-affected populations.
であり、クラスターシステムを中心とした連携調整の仕組みをもとに、国内外のNGOやUN機関がいかに被災者のニーズに応えていくかというものだ。
International Medical Corpsが主導し、Concern WorldwideとHarvard Humanitarian Initiativeとの協働により立ち上げられた。
オンラインコースの内容
オンライントレーニングは次の5つのユニットから成る。
Unit 1: Foundations of Humanitarian Action
緊急人道支援における主要アクターを解説した上で、人道支援の原則やこれまでの歴史を紹介し、どのような経緯を経て現在の仕組みが生まれてきたか、どこが重要な点であるかを説明する。
Unit 2: The International Humanitarian Architecture
Inter-Agency Standing Committee(IASC=機関間常設委員会)やEmergency Relief Coordinator(緊急援助調整官)、Humanitarian Coordinator(人道調整官)といった仕組みをはじめ、被災国内外における緊急人道支援の調整メカニズムを解説する。
Unit 3: The Cluster Approach
常設の国際クラスターと、被災状況に合わせて設置される国レベルのクラスターの仕組みを説明する。また、11にわたるクラスターの主な役割と、主導する組織も解説。
Unit 4: Planning and Funding the Humanitarian Response
Humanitarian Programme Cycle(人道支援プログラムサイクル)を説明した上で、どのようにニーズアセスメントやプランニングを行うか解説する。また、Central Emergency Response Fund(CERF=国連中央緊急対応基金)による貸付と給付という2種類の資金メカニズムを紹介。
Unit 5: International Law and Humanitarian Standards
改めてInternational Humanitarian LawとHuman Rights Lawの概要を説明し、緊急人道支援で働く人がプロフェッショナルであるための基本原則を伝える。
オンラインコースのすすめ
現場の日常業務に追われていると、どうしても視点が狭くなりがちだ。業務とは別に自分自身の関心を勉強したいこともあるだろう。とてもありがたいことに、無料で受講できるオンラインコースがどんどん増えている。
Building a Better Responseのコースはとても分かりやすく、ユニットごとに分かれ進捗状況が目に見えるため、達成感を感じながら進められた。ひとつのユニットに1時間かからないくらいなので、全部で5時間あれば十分に修了できるだろう。
対面でのコースも別にあるが、移動費や受講料、時間を考えると、決して悪い選択肢ではないように思う。
国内外の遠隔地に住んでいる人、現場で働きながら大きな視点も手に入れたい人、現場での事業運営のヒントを得たい人、これから国際協力分野で働く人などにおすすめだ。
参考サイト
ミャンマーの田舎と暮らし
美しい田園地帯と穏やかな暮らし。カレン州での民族紛争の印象とはまったく異なる風景が村には残る。
カレン州パアンから車で20分ほど、コカタンカーという村に行ってきた。見渡すかぎり田んぼと畑。朝もやがきれいだ。乾季が始まったこの時期は、みな焚き火をするので、夕方になるとけむく、さらにもやが濃くなる。
コカタンカーは知り合いの大学の先生(右奥)が生まれ育ったところ。先生の弟と、村の学校の元校長先生も加わって、村をのんびり歩く。
ちょうどこの日はUNHCR DAYで、村の広場では子どもたちがイベントをしていた。そういえば、ミャンマー小学校で一度も男性の先生を見たことがない。この学校も若い女性ばかり。
先日、アウンサンスーチーさんが来日したとき、「優秀な人材を集めると女性ばっかりになってしまうので、男性にもチャンスを与えなくてはいけない」と語ったらしいが、調べてみると、同国の労働参加率の男女差は7.5ポイント(女性72.4%、男性79.9%)と、東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国の中でも2番目に差が小さいとのこと。カレン人の男性も真面目で働きものだが、やっぱり役所やお店に行っても、女性の率が高い。
頭に乗せた大きなざるを落とさないように歩いたり、バケツからペットボトルへ口移しで水を運んだり、不思議な競技ばかり。子どもたちはみんな楽しそう。
村の学校とクリニックは草の根・人間の安全保障無償資金協で作られたようだ。ODAマークが入った看板が飾られていた。
日本語を話せる女性がいると聞いて、会いに行ってみた。
1974年、29歳のときに東京へ夫とももに日本に来たらしい。それから10年、日本に住み、夫が亡くなったあと、ミャンマーに帰国した。ほとんど話す機会がない日本語はたどたどしいが、彼女が生きてきた人生に触れられたようで嬉しかった。
お昼はミャンマー料理をご馳走になる。
豚肉のカレー(ウェッターヒン)に、冬瓜のスープ、卵焼き、ピーナッツであえのサラダ、魚醤(ンガピャーイェー)。お馴染みの塩辛い味付けだが、ご飯がよく進む。
食事のあとは再び村を歩く。日中は日差しが強く、30度以上にもなる。
ヤンゴンをはじめ、急速な開発が進められる最近ではあるが、こうした豊かな暮らしが守られ、長く残っていくことを願ってやまない。
パアンでも綺麗な建物が増え、家電や携帯電話の普及率も上がってきているように思う。たしかに新しいものは魅力的で、便利かもしれない。しかし、便利になればなるほど、人は時間に追われ、”暮らし”を忘れていく。
ミャンマーに来て幸せに思うのは、そうした丁寧な暮らしが感じられることである。日本人のエゴであろうと分かりつつも、失ってほしくないと願ってしまうのだ。