7days

CBR - Community Based Rehabilitation

ミャンマーに赴任してはや1週間と4日。先週は日本から専門家がいらっしゃり、CBR - Community Based Rehabilitationの研修を現地スタッフと一緒に受けた。CBRとは既存の障がい者支援が1対1で行われていたことに対して、孤立しがちな障がい者同士やコミュニティ内でのつながりをつくり、相互扶助を生み出していくもの。1対1ではなく、複数対複数である。

具体的なCBRの活動はWHOがまとめたCBR Matrixが網羅している。

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WHO | About the community-based rehabilitation (CBR) matrix

 

この図を見てのとおり、特定の分野によらず、医療サービスから教育、生計支援、コミュニティ構築、エンパワメントまで多角的な支援を提供し、Inclusive Societyをつくることを目指している。この根底には、障がいの社会的アプローチがある。障がいが個人に起因するものではなく、社会的な障壁があって、はじめて存在すると捉え、社会に対して働きかけを行っていく。そのためにはさまざまな側面から障がい者当事者や家族、コミュニティに働きかけをする必要がある。

CBRでニーズアセスメントを行う際、障がいの種類や具体的な障がいではなく、彼らがコミュニティや日常生活に抱く困難さの中身がもっとも重要になる。言い換えれば、どんな障がいを持っていようとも、その人が難なく日常生活を送れているのであれば、社会に統合できていると捉え、支援の対象者とはならないのだ。

一方で、医療サービスにおいて障がいの種類や程度が重要なのに対して、CBRではそれらが異なろうとも、同じニーズを持っていれば、同一のサービスを提供することもできる。すべての人が社会から排除されず、最小限の困難さで日常生活を送ることができる、それを目指していく。

 

◎ 研修中に訪問した赤十字障がい者支援センター。義足とリハビリを無償で提供する。利用者の60%が地雷被害者とのこと。

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◎ 利用者が自分で作ってきた義足が並ぶ。さまざまな工夫がなされている様子を見ると、人間って強いなと改めて思う。

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研修ではCBRのイロハから事例、ニーズアセスメントの方法を学んだ。正直なところ、前職でいくつかの障がい者支援を行うNPOと関わってきたが、具体的な活動に携わるのは初めてで、知識も経験もほとんどない。ただ、6日間の研修でぐっと理解が深まったし、ますます新しく関わる分野に関心も生まれてきた。これまで多くの取り組みの結果、生まれてきた概念・手法であることに敬意を感じるとともに、 これからどのような事業に展開できていくかとても楽しみだ。

 

参考:WHOが発行しているCBRのガイドライン

はじまり

昨日、ミャンマーに赴任した - 7daysというエントリを書きながら、フィリピンのマタグオブを思い出していた。国際協力という仕事に関わろうと決意した村だ。奇遇にもNGOの職員としての最初の赴任地がマタグオブに似ていて、自分の原点へ連れ戻してくれる。

マタグオブで出会ったひとりのナナイ(お母さん)から言われた一言で、僕は貧困や開発というものを深く考えたい、専門家として関わりたいと思うようになったのだ。

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マタグオブはセブからフェリーでレイテ島のオルモックに渡り、そこからバスで行く。まばらに村々が存在し、拓けた土地には水田が、林間部にはヤシの木が広がる。決して豊かな経済状況ではなく、小作人制度が残り、村人間の格差もある。幹線道路に面する村と、山岳部に位置する町でも経済状況は大きく異なる。さらに洪水も頻発し、2013年のハイエンはまさにこの地を襲い、甚大な被害が出た。

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そんな状況でも村人は陽気に暮らす。ココナッツで作られたトゥバというワインを飲み、しょっぱいおかずで山盛りのご飯を食べ、賑やかな夜を過ごす。朝、小学校へ行ったら、ラジオ体操代わりにLady GagaのPoker Faceで子どもたちがダンスをしていたのは驚いた。いまは何の曲で踊っているのだろう。

 

マタグオブには大学1年生のころ、初めて訪れた。気さくなフィリピン人の優しさに触れ、一気に惹かれてしまったのを覚えている。これまでにたった3回、計2ヶ月半しかいなかったのに、第二の故郷のように思えて仕方がない。

僕らはマタグオブで村に滞在しながら、村人ともにプロジェクトを実施するワークキャンプを行った。村の人たちと相談し、小学校校舎の修復と水道管の整備をした。滞在中は村の公民館や村人の家に泊まらせてもらい、衣食住をともにする。毎日が楽しくてあっという間に時間が過ぎてしまった。

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ただ楽しかっただけでは、大学生のひとつの思い出にしかならなかったかもしれない。そこで出会ったひとりのナナイ(お母さん)のひとことがいまの仕事への始まりだ。

人と人の豊かなつながりや気ままな生活に魅力を感じるなかで、貧しさという言葉に疑問を覚えるようになってきた。当時、日本でワークキャンプを紹介する際、フィリピン農村部で貧困解決のための活動と伝えていた。しかし、現地にあるのは貧しさではなく、むしろ日本より豊かな暮らしに見えてしょうがなかったのだ。

 

ある日、お世話になっていたナナイにその想いを伝えた。彼女は厳しい顔でこう答えた。

「それはあなたに選択することができるからよ」

 

その言葉をしっかりと理解できるまでにどれほど時間がかかっただろうか。

「貧困とは選択の乏しさである」

そう理解できたとき、なぜナナイが厳しい顔で答えたのか、ナナイがどのような現実を見てきたか痛感し、自分自身の至らなさを恥じたのだった。果たして僕がマタグオブでやってきたことは本当に彼らの選択肢を広げる行為だったのか。一度、気付いてしまうと、沸々と疑問が生まれてきた。

 

同時に結局、ワークキャンプで一番しんどかったのは日本人同士の関係やコミュニケーションだった。ワークリーダーを務めるなかで、人に役割をつくり、励まし、チームをつくりあげていくことがどんなに難しく、重要であるかを痛感した。それはその後、いくつかのNGOインターンをするなかでも感じたことである。

こうして、国際協力の仕事に関わりたいと思い、非営利のマネジメントと学ぼうと決意してから7年。当時願ったかたちで、ミャンマーに来られたことをとても嬉しく思う。

描けば叶う。具体的でなくても、漠然としたイメージを描き、近くであろう選択を重ねていけば、どんなに遠回りしてでもいずれ辿り着けるだろう。

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ミャンマーに赴任した

トルコから帰国してはや1ヶ月。ミャンマーへ赴任が決まり、バタバタとカレン州パアンにやって来た。パアンはヤンゴンからバスで6時間、カレン州の州都だ。事務所はダウンタウンから少し離れたところにある。

 

不思議とパアンの風景に懐かしさを覚える。なぜだろうと考えて思い出すは、フィリピンだ。学生時代に通ったレイテ島のマタグオブ。ど田舎で、特別なものはないけど、人が良くて、バイクタクシーとトゥクトゥクが走る町。ときどきひどい雨が降るから、みんなサンダルで軽装。とっても懐かしくて、すぐに雰囲気に馴染んでしまう。

もっともフィリピン人とミャンマー人の性格は全く異なるから、パアンは気の優しいマタグオブと言えるかもしれない。

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カレン州に住むカレン族はスゴーカレンとポーカレンに分かれるが、スゴーカレンの方がキリスト教徒が多い。イギリスの植民地時代、ビルマ族のいる中心地域とそれ以外の地域を分割し統治した結果、ビルマ人地域と多民族地域には大きな隔たりが出来た。その間、キリスト教宣教師は多民族地域のカレン州に入り、宣教活動を行ったらしい(曖昧な記憶によれば)。多くはないが、イスラム教徒もいる。町には金ピカな寺院と、バプテストの教会と、シンプルなモスクが混在する。

また、パアンはタイ国境に近いため、タイ料理のお店も多い。加えて中国料理もインド料理もあり、ヤンゴンには400店もの日本食店があるようだ。

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こうした多民族、多宗教、多文化が織りなす雑多な雰囲気がミャンマーならではだろう。ヤンゴン都市化が進みつつも、イギリス植民地時代の建物が残れば、オンボロの民家も建ち並ぶ。民族や宗教という横の広さと、時間という縦の広さが立体的な文化を生み出している。

こうした豊かさが多くの人を惹きつけてやまないのだろうと納得できる。

 

イミグレーションの役所に行けば、一台もパソコンがない、停電は日常茶飯事、ネットは遅くてときにメールさえ受信できない。政府エリアしか入られないし、ホテル以外に外国人は宿泊できない。教育は一律ではなく、高等教育機関は未整備。

これまでの鎖国状態が守ってきた文化と、妨げてきた発展。民主化したからといって、相変わらず変わらない排他的な政府。

 

はたしてミャンマーはどこに行くのだろう。パアンに住み始めて3日目。そんな佳境にいるミャンマーに期待と希望と、同時に不安も抱くのだ。

 

トルコを旅する

トルコは絶対に行きたいと思っていた旅先のひとつだった。まさか初の海外出張で来るとは思ってもいなかったが、念願かなって、7月始めのバイラム休暇中に旅をした。

トルコは不思議な国だなと思う。数千年の歴史、多様な文化、壮大で美しい自然、世俗主義と厳格なムスリム、多彩な食事。混沌とし、一方で先進国の面影も感じる整然としたこの国はとても”大きい”。

ただ、ここ数年は残念なことに、テロの懸念からがっくりと観光客が減っている。今回の旅行ではひとりも日本人に出会わなかった。どこの観光地も苦境にあえいでいる。僕も当初はいろんな街をまわろうと思っていたが、6月28日にイスタンブール空港で自爆テロがあったばかりだったので、予定を変更した。それでも本当に素敵な旅になった。

 

◎7月5日:アドナン・メンデレス空港(イズミール)→セルチュク→シリンジェ

イズミールの空港から電車でセルチュクという街に向かう。ただっぴろい平原を走るだけなのに、電車は頻繁に止まるし、とてもゆっくり。外の景色はなんとなく日本に似ている。

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電車の見た目は結構かっこいい。

f:id:taaku3:20160727035305j:plain空港からセルチュクまで約1時間。駅から10分弱歩いたところにあるオトガルから、シリンジェ行きのバンに乗る。20分の1本くらいで出ていて、片道3TRY。

シリンジェはとても小さな街。この街がトルコ中で有名になったのは2012年のこと。マヤ暦には12月に地球が滅びるが、シリンジェだけが助かると書かれていたらしい。ちなみにフルーツワインが有名。

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仲良くなったトルコ人にご飯屋さんを紹介してもらう。

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日中はとても暑く、日も長い。22時くらいから少しずつ涼しくなってくる。ステイしたペンションのオーナーはトルコで有名なマジシャンだった。

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◎7月6日:シリンジェ→エフェス→シリンジェ

朝のシリンジェはとても綺麗。

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シリンジェから再びバンに乗り、セルチュクのオトガルで乗り換えてエフェスに向かう。セルチュクからは15分くらい。途中で降ろされたので、エフェス遺跡まで歩く。入場料は1人40TRY。遺跡の中にも屋内展示場があって、そちらは20TRY。

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どんと現れた遺跡群は壮大だった。2000年以上も前にいったいどうやって作られたのだろうか。細部までこだわって装飾が施された建築は美しく、荘厳だった。

3時間ほどかけてゆっくりと見る。しかし、50度近い炎天下のなかでの観光はかなりしんどい。

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セルチュクに戻って、エフェス博物館に向かう。独特な大アルテミス像。

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その後はシリンジェに戻る。夜の静まった街並みも居心地が良い。

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◎7月7日:シリンジェ→セルチュク→クシャダス→ソケ→ディディム→セルチュク

シリンジェからセルチュク、クシャダス、ソケ、ディディムへとミニバスを乗り継ぐ。2時間くらいで行けると思っていたが、結局3時間ほどかかって到着。

地中海(と水着美女)を眺めながらビールをいただく。最高。

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ビーチ近くからさらに市内を回るミニバスに乗り、アポロ寺院へ行く。メジューサで有名だが、建築も素晴らしかった。現存する遺跡だけでも壮大なのに、当時はこの3倍の高さだったらしい。建物のまわりには彫刻が施された大理石がごろごろと転がる。

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そこからビーチ近くへミニバスで向かい、さらにミニバスを乗り継ぎセルチュクへ戻る。帰りは渋滞につかまり4時間ちかくかかってしまった。

ソケのオトガル。夜行バスも数多く出ているターミナルでかなり広い。

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クシャダスの乗り換え地点。

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◎7月8日:セルチュク→デニズリ→パムッカレ→セルチュク

日本人にも有名なパムッカレを目指す。セルチュクのオトガルから3社がバスを運行しているが、電車の方が安いし、遅れることもないのでこちらを選択。約3時間ゆっくりと電車に揺られる。

デニズリの駅からオトガルまでは徒歩で5分くらい。パムッカレまでミニバスでやってくると、ぽいっと街中で降ろされる。そこから再び歩いて10分。真っ白な景色が見えてくる。

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観光ラッシュでだいぶ水が干上がってしまい、かつてほど美しい景色は残っていないと聞いていたが、やはり期待を下回ってしまった。それでも自然が創りだした石灰岩の棚田は素晴らしく、目を奪われてしまう。

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なににせよ、驚きなのはこの石灰岩の棚上に、ローマ帝国の温泉保養地・ヒエラポリスが栄えていたことである。1354年の大地震で崩壊したが、かつてどんなに素晴らしい景色と豊かな温泉が人々を癒していたかと思うととても興味深い。

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セルチュクへ再び3時間の電車旅。何もさえぎるものがない太陽の下で、さらに足元は真っ白な石灰岩。日焼けがひりひりする。

最後にビールで旅を〆る。

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セルチュクもシリンジェも日本人にとっては決して人気のある街ではないし、なにか特別なものがあるわけでもない。ただ、どんな街にもその街の色がある。観光地を巡っているといつか飽きが来てしまうのだが、新しい街と出会うことはいつも刺激的だ。

そして、移動も旅の大事な要素だ。街に住む人とともに肩を寄せ、長い間、移動しているとその暮らしと文化が見えてくる。話しかけられたり、じろじろ見られたり、逆にじっと見つめてみたり。みな目的地に着くと、ひとりひとりと降りていく。まるで何もなかったかのように、空間が消え、また新しい空間が生まれる。

僕にとって、旅とは街と街との移動だ。

たしかに人も重要な要素だ。でもそれは人との交流だけを示さない。空間を共有する、すれ違う、目で挨拶をする、電車で隣になる、、それもまた旅の魅力だ。交流ばかりを見ていると、その隙間にある大事な、幸せな時間を逃してしまう。

さて、次はどこに行こうか。その時間が何よりも幸せなのである。

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26歳

先週、26歳になった。こんなにもあっさりと26歳になるなんて考えてもいなかった。決して18歳の気分でいるわけでも、22歳の気分でいるわけでもない。ただ、思っていたより、26歳はすぐにやってきて、思っていたより、18歳や22歳の自分と変わっていなかった。

26歳という響きは特別に感じていた。20代ながら、前半でも後半でもない。若さと身軽さを持ちながら、一方で多少なりとも経験を得て、頼られるようになる歳とも思っていた。25歳は若すぎる。でも26歳は少し違う。子どもの頃に描いていた26歳は軽やかで目指すべき姿だった。

残念ながら、そうなるべき生き方をしてこなかったのか、描いていた26歳像が誤っていたのか、想像とは到底離れた26歳の自分が出来上がった。もしかしたら、トルコ人のおっさんに、トルコ風に切られた髪のせいなのかもしれない。妙に若く見られる。

いや、おそらく髪型ではないだろう。もっと根本的なもののように思える。

そんなことを先日金曜日に考えていた。ちょうど26年前に生まれたその日は奇しくも、バイラム休暇前の最後の勤務日。現地スタッフがみんな楽しげに笑顔で、じゃあねー!なんて帰って行くなか、彼らが諦めた仕事とともに過ごしながら、26歳とは何か考えていた。すっきりとする答えは見つからない。

誕生日の翌日に食べた食事が悪かったのか、特別と思っていた26歳は腹痛と下痢と迎えた。すでに3日が経つものの、相変わらずの状態である。

昔から胃腸が弱い。思い当たる節がありすぎて、はっきりと原因が特定できない。おそらく過敏性腸症候群であろう。この胃腸がすこぶる良くなれば、きっと26歳も理想としていたものに近くなるのではないか。そうか、26歳の目標は過敏性腸症候群を治すにしよう。

ちょっと調べてみると、過敏性腸症候群を治すためには、食事を整える、ストレスを減らす、生活習慣を改善するなどが必要とのこと。なんだか簡単ではなさそうだが、綺麗な胃腸とともに迎える27歳は特別になるかもしれない。すっきり胃腸の綺麗な27歳。それにしよう。

さて、トイレの心配は残るが、いまからイズミル旅行だ!9日まで5日間、楽しんできまーす!