7days

27歳ってもっと大人だと思っていた

ふと気がつけば、27歳、四捨五入すれば30歳だ。

高校生の頃に想像していた27歳は、自信が持てる何か専門性と仕事を持ち、将来に対して明確な目標があり、子どもはまだにせよ、彼女はいると思っていた。

だが、実際に27歳になって気が付いたことは、自分が想像していた自分にまったく近づけていないということだ。

孔子曰く、「吾 十有五にして学に志し 三十にして立ち 四十にして惑わず 五十にして天命を知る。六十にして耳順い 七十にして 心の欲する所に従いて矩 のり を踰えず」。

ところがどっこい、僕はやっと27歳にして学問の重要さを気がつき、一方で明確な専門性をなく、将来に対しても定まらないことこの上ない。はて、自分はあと3年後には而立し、40歳には不惑となっているのだろうか。

 

改めて思う、人の人生は地続きだ。

10年後の自分を考えたとき、なぜか今の自分からずいぶん飛躍し、まったく新しい自分を想像してしまう。だが、実際は”いまの自分”が連続し、”明日の自分”につながる。いまと10年後は10年の間があるが、そこには堺はなく、その10年は連続的なのだ。

いまの自分の思考や振る舞い、行動が10年後の自分を規定し、10年後の今ごろは出来上がった自分と対面するのみである。そのときに自分自身に満足できなくとも、そこで変化を起こすことはできないのだ。

高校時代に想像した27歳の自分と、いま現実の自分にギャップを感じるならば、この10年間が想像した自分につながる時間の積み重ねではなかったのだろう。

 

一方で、それで良いのだとも思う。

時間は使うものではない。時間を使うものにしてしまった途端、僕らの人生はただ何かを成し遂げるだけに翻弄され、時間が過ぎてゆくことに焦り、自分自身が消費されていく。

人生は人が生まれると書く。生きること自体が人を生みだす過程なのだと思う。時間は積み重ねるものだ。毎日毎日、その日に考えたこと、思ったこと、行動したことが薄く薄く積み重なって、人生が生まれていく。

いま、高校時代に想像した27歳そのものになれたとして、それは幸せなのだろうか。高校時代の自分にはいまミャンマーで働いていることなんて想像もできなかった。それでいいんじゃないかって思う。

 

こう前向きに考えたとしても、時に無性に不安に襲われることがある。

いろんな社会やコミュニティの保障が崩壊していく中で、自分は行きていかねばならないのだ。だからこそ、高校時代に想像した自分とのギャップが、これまでの10年間どうだったんだと不安にさせる。不安でたまらない、それが正直なところだ。

だが、その不安も受け入れよう。

究極的にはどんな金持ちだって、どんなに彷徨った人間だって、遅かれ少なかれ(後者の方が早いかもしれない)どうせみんな最後は墓場に入るのだし、不安になる必要などないのだ。

 

いまできることは、次の10年後の自分を想像しながら、地に足を着けて、目の前とちょっとその先にやってくるものに対して向き合い、諦めずに考え続けていくことだ。

10年後の自分は、いまの自分には想像できないところにいるかもしれない。相変わらず悩んで迷っているかもしれない。そうしてまた次の10年後を考え始めるのだ。