ある日のパアン
ミャンマー、カレン州、パアン。
カメラを持ってふらふら散策。面白いものが色々ころがってそうだ。
パアン名物のズウェガビン山(Zwegabin)。独特な形をした山の頂にはパゴダがあり、夜には明かりが見える。雨季が明けたら登りに行こう。
パアン市内にあるカン・ター・ヤー湖(Kan Thar Yar Lake)はデートスポットのよう。半周ばかり歩くだけで20組近いカップルに遭遇。みんなあれこれ、一生懸命いちゃいちゃしてる。
カップルを見守るように黒ヤギがいた。ずっともぐもぐしている。
湖の辺りの道は緑が多くて気持ちがよい。バイクに二人乗りしたカップルが通り過ぎていく。道に巨大なドブネズミが死んでいて驚いた。
手にワイン、目に涙。何を悲しんでいるんだろうか。
日本の中古車が本当に多い。車道は左側通行なのに、大半の車が右ハンドルなのは大きな問題に。右ハンドルが禁止になる日は遠くないかも。
大きな耳を白ヤギ。もう一匹のヤギとヒモでつながれていた。逃げ出すには協力しないといけないようだ。
帰り道、雨の匂いがしたので急いで帰る。あと少しというところで豪雨。あっという間に機嫌が変わる天気を読むのは難しい。
雨と雷と停電
雨季のミャンマー。
今日は久しぶりに気持よく晴れたので、街で一番大きな市場に買い物に行く。市場に向かって歩いていると、小さな屋台で美味しそうなものを発見。1つ100チャット。
包み紙に数式が書かれている。屋台のおばちゃんの子どもが勉強した後なのだろうか。なんか雰囲気があっていい。中には甘いココナッツが包まれていて、食感はさくさく。けっこう美味しい。
ちょうどお昼時だったので市場の中にある食堂で腹ごしらえ。前の客が使ったコップは洗わず、お皿はバケツの水でじゃぶじゃぶ。極端に衛生環境が悪いものは避けるけど、どこかで心のスイッチを切らないと、東南アジアでは生活できなくなってしまう。
ミャンマー料理と言えば、油たくさんのカレー。厳密にはカレーとは違う油戻し煮という調理方法で作られているようだが、豚や鶏肉、魚などのしょっぱいカレーで、パサパサなご飯を食べる。
イギリス植民地時代にミャンマーはインドの食料生産地だった。大規模なプランテーションがインドで展開されていくなか、増加するインド人労働者の食糧として米が生産された。その後もイギリス本土やアフリカでの労働者の食糧として、安い品種が大量に生産されてきた。そうした結果、ミャンマーのお米は安い品種ばかりになり、現在でも発展途上のようだ。
目的の市場にはたくさんの野菜が並ぶ。日本でお馴染みのオクラや白菜、ナス、カリフラワー、アスパラ、かぼちゃもある。もちろん見たこともない、食べたこともない不気味な野菜も。
不思議に思うのは、オクラやナスと、白菜やかぼちゃって同じ時期にできるんだっけ?ってこと。
買い物を終えて、汗だくになりながら帰宅する。道には人が全然いない。雨季でも日中はかなり暑く、30度後半になることもある。日中は家にこもったり、みんな日陰を歩いたりしているようだ。
帰宅後、夕食を作っていると、ものすごい雷と豪雨。あまりの激しい雨に、雨音以外、何も聞こえない。日本だったら、ゲリラ豪雨と言われるんだろうな。近くで雷が落ちたと思ったら、すぐ停電。雷が逆電したか、コンセントから火花が飛ぶ。
料理中の停電はなかなか困る。ろうそくを灯して、薄暗いなかでどうにか作る。雨と雷と停電が続く。。
こんなことを書いているうちに、そろそろ雨も収まってきた。こんな雨のあとにやってくる、しんとした静けさと、心地よい涼しさが好きだ。
ライフ
先週末、日本から来た専門家による研修があったので、今日はお休み。カビだらけだった自室を丸一日かけて掃除掃除掃除!
9月のミャンマーは雨季で、毎日むしむしと湿度が高い日が続く。今日の天気予報では最高気温37度で、体感温度はなんと46度。洗濯物はまったく乾かないし、乾いた衣類も湿ってくる。そんな中、僕の部屋はしばらく住む人がいなかったために、ほこりとカビに覆われていた・・
たかが6畳くらいの部屋なのに、きれいにするのに1畳1時間くらいかかる。掃除用洗剤を混ぜた水にスポンジを湿らせ、ゴシゴシとこすると真っ黒な水・・久しぶりにやりがいのある掃除。
無心に掃除をしながら、ふと以前保険屋さんに聞かれたことを思い出した。カラオケの一室で尋ねられた「どんなライフプランをお考えですか?」。これまで一度も聞かれたことがなかった質問に戸惑ってしまった。
一般的にライフプランといえば、人生におけるお金の計画だろう。ただ、その前提には仕事もプライベートもさまざまな面での人生設計がある。
キャリアプランはある。プランと言えるほどのものでもないし、それ以上に具体的なものを持とうとも思わないが、3年後にこうしていて、5年後にこうなっていたいという漠然としたものはある。しかし、ライフってなにさ。
そもそも人生なんてプランできるものではないと思う。ましてやこのご時世、なにが当たり前かなんて不明確で、何十年後も変わらない前提条件も存在しない。あまりに変数が多すぎて、しかも不可避な(特に負の)外部要因が増え続けている。そんな中でどうにか生き延びていくには、綿密なプランではなく、予期しない事態に対応できる力と備えだけだろう。
すると、何歳で結婚して、何歳で子どもが何人できて、何歳で昇給して、何歳で家を買って、なんて計画は意味のないものに思えて仕方がない。それらの前提条件があまりに危うい。そしてExcel表なんかで想定し得る人生はそもそも幸せなのだろうか。
考え方は異なるものの、ちょうど思っているところに近い記事がアップされた。安定の条件が変わり、求め方が多様になったように思える。
このように考えるとお金も時間も使い方は自ずと見えてくるように思う。いま、海外で国際協力という仕事に携わるのは、僕にとって、遠くない未来に安定した生活を得る方法であり、 そのための条件を整えていく道なのだ。(詳しくはまたいずれ)
ただ、一方でどうしたものか悩むこともある。国際協力の仕事をしているからといって、誰かのために人生を捧げ、自分の人生は満たされなくても良いなんて思っていない。自分が満たされ、初めて本当に誰かのためになれるのでないか。
いずれ信頼できる相手が欲しい。子どもも。しかし、この仕事をしているとなかなか機会がなく悩ましい。いや機会はいくらでもあるのだろうが・・。時たま、このカビ部屋を誰かと共有できたならば、少しは温かみができるのではないかと思う。何気ない日常をただ過ごし、忘れてしまうのではなく、言葉にし会話できることがいかに幸せで豊かなことであるか痛感する。
彼女が欲しい。いや、彼女という関係でなくても構わないが、信頼できる関係を築いていける相手が欲しい(もちろん可愛い女性に限る)こんな夕陽を肩を寄せて一緒に見たい。
なんだか偉そうなことを書いておいて、結局はとりあえず彼女が欲しいって何だよという感じだが、まあ僕も人なのである。
CBR - Community Based Rehabilitation
ミャンマーに赴任してはや1週間と4日。先週は日本から専門家がいらっしゃり、CBR - Community Based Rehabilitationの研修を現地スタッフと一緒に受けた。CBRとは既存の障がい者支援が1対1で行われていたことに対して、孤立しがちな障がい者同士やコミュニティ内でのつながりをつくり、相互扶助を生み出していくもの。1対1ではなく、複数対複数である。
具体的なCBRの活動はWHOがまとめたCBR Matrixが網羅している。
WHO | About the community-based rehabilitation (CBR) matrix
この図を見てのとおり、特定の分野によらず、医療サービスから教育、生計支援、コミュニティ構築、エンパワメントまで多角的な支援を提供し、Inclusive Societyをつくることを目指している。この根底には、障がいの社会的アプローチがある。障がいが個人に起因するものではなく、社会的な障壁があって、はじめて存在すると捉え、社会に対して働きかけを行っていく。そのためにはさまざまな側面から障がい者当事者や家族、コミュニティに働きかけをする必要がある。
CBRでニーズアセスメントを行う際、障がいの種類や具体的な障がいではなく、彼らがコミュニティや日常生活に抱く困難さの中身がもっとも重要になる。言い換えれば、どんな障がいを持っていようとも、その人が難なく日常生活を送れているのであれば、社会に統合できていると捉え、支援の対象者とはならないのだ。
一方で、医療サービスにおいて障がいの種類や程度が重要なのに対して、CBRではそれらが異なろうとも、同じニーズを持っていれば、同一のサービスを提供することもできる。すべての人が社会から排除されず、最小限の困難さで日常生活を送ることができる、それを目指していく。
◎ 研修中に訪問した赤十字の障がい者支援センター。義足とリハビリを無償で提供する。利用者の60%が地雷被害者とのこと。
◎ 利用者が自分で作ってきた義足が並ぶ。さまざまな工夫がなされている様子を見ると、人間って強いなと改めて思う。
研修ではCBRのイロハから事例、ニーズアセスメントの方法を学んだ。正直なところ、前職でいくつかの障がい者支援を行うNPOと関わってきたが、具体的な活動に携わるのは初めてで、知識も経験もほとんどない。ただ、6日間の研修でぐっと理解が深まったし、ますます新しく関わる分野に関心も生まれてきた。これまで多くの取り組みの結果、生まれてきた概念・手法であることに敬意を感じるとともに、 これからどのような事業に展開できていくかとても楽しみだ。
参考:WHOが発行しているCBRのガイドライン
はじまり
昨日、ミャンマーに赴任した - 7daysというエントリを書きながら、フィリピンのマタグオブを思い出していた。国際協力という仕事に関わろうと決意した村だ。奇遇にもNGOの職員としての最初の赴任地がマタグオブに似ていて、自分の原点へ連れ戻してくれる。
マタグオブで出会ったひとりのナナイ(お母さん)から言われた一言で、僕は貧困や開発というものを深く考えたい、専門家として関わりたいと思うようになったのだ。
マタグオブはセブからフェリーでレイテ島のオルモックに渡り、そこからバスで行く。まばらに村々が存在し、拓けた土地には水田が、林間部にはヤシの木が広がる。決して豊かな経済状況ではなく、小作人制度が残り、村人間の格差もある。幹線道路に面する村と、山岳部に位置する町でも経済状況は大きく異なる。さらに洪水も頻発し、2013年のハイエンはまさにこの地を襲い、甚大な被害が出た。
そんな状況でも村人は陽気に暮らす。ココナッツで作られたトゥバというワインを飲み、しょっぱいおかずで山盛りのご飯を食べ、賑やかな夜を過ごす。朝、小学校へ行ったら、ラジオ体操代わりにLady GagaのPoker Faceで子どもたちがダンスをしていたのは驚いた。いまは何の曲で踊っているのだろう。
マタグオブには大学1年生のころ、初めて訪れた。気さくなフィリピン人の優しさに触れ、一気に惹かれてしまったのを覚えている。これまでにたった3回、計2ヶ月半しかいなかったのに、第二の故郷のように思えて仕方がない。
僕らはマタグオブで村に滞在しながら、村人ともにプロジェクトを実施するワークキャンプを行った。村の人たちと相談し、小学校校舎の修復と水道管の整備をした。滞在中は村の公民館や村人の家に泊まらせてもらい、衣食住をともにする。毎日が楽しくてあっという間に時間が過ぎてしまった。
ただ楽しかっただけでは、大学生のひとつの思い出にしかならなかったかもしれない。そこで出会ったひとりのナナイ(お母さん)のひとことがいまの仕事への始まりだ。
人と人の豊かなつながりや気ままな生活に魅力を感じるなかで、貧しさという言葉に疑問を覚えるようになってきた。当時、日本でワークキャンプを紹介する際、フィリピン農村部で貧困解決のための活動と伝えていた。しかし、現地にあるのは貧しさではなく、むしろ日本より豊かな暮らしに見えてしょうがなかったのだ。
ある日、お世話になっていたナナイにその想いを伝えた。彼女は厳しい顔でこう答えた。
「それはあなたに選択することができるからよ」
その言葉をしっかりと理解できるまでにどれほど時間がかかっただろうか。
「貧困とは選択の乏しさである」
そう理解できたとき、なぜナナイが厳しい顔で答えたのか、ナナイがどのような現実を見てきたか痛感し、自分自身の至らなさを恥じたのだった。果たして僕がマタグオブでやってきたことは本当に彼らの選択肢を広げる行為だったのか。一度、気付いてしまうと、沸々と疑問が生まれてきた。
同時に結局、ワークキャンプで一番しんどかったのは日本人同士の関係やコミュニケーションだった。ワークリーダーを務めるなかで、人に役割をつくり、励まし、チームをつくりあげていくことがどんなに難しく、重要であるかを痛感した。それはその後、いくつかのNGOでインターンをするなかでも感じたことである。
こうして、国際協力の仕事に関わりたいと思い、非営利のマネジメントと学ぼうと決意してから7年。当時願ったかたちで、ミャンマーに来られたことをとても嬉しく思う。
描けば叶う。具体的でなくても、漠然としたイメージを描き、近くであろう選択を重ねていけば、どんなに遠回りしてでもいずれ辿り着けるだろう。